歴史館

村下孝蔵マスコット

村下孝蔵ファンクラブ公認マスコット
今は無き村下孝蔵ファンクラブ公認マスコット

傷心の旅

  • あの日は「松山行きフェリー」(当時の歌詞は今とは違う)を書いて一年後、3月28日だった。
  • まだ、あの人を諦め切れないぼくは、あの人のいる松山へ向かった。おそらく、その日が最後になることを予期しながらも。
  • 広島港(宇品)から高速艇(ジェット便)で約一時間、松山観光港(高浜)へ着く。
  • 観光港を出て左手にバス乗り場がある。松山市内行きに乗り約30分、松山市駅で降りる。
  • 松山のメインアーケード(大街道)を松山城方向へ歩く。(途中うどん屋さんが沢山あるけど、どこもうまい)
  • 電車通りに突き当たると三越デパートがある。そのライオンの像の前が待ち合わせ場所だ。
  • そこで聞かされた話は「既に婚約している」ことだった。
  • 彼女と別れた後、そのままロープウエイ街を通ってロープウエイ乗り場へ行った。
    何度か通ったライブハウス「バラエティー」はここにあった。(よく「ナインス」ではないかと聞かれるが、当時「ナインス」は、まだなかった。今はどちらもない。)
  • ロープウエイ乗り場についたら、ロープウエイとリフトがある。ぼくはリフトにのった。普段なら風に吹かれてが気持ちよい。10分くらいで終点に着く。
  • なだらかな坂道を城に向かって歩きながら、途中で何度も松山市内を振り返って見る。(途中でとても景色の良い場所が何箇所かある。)
  • 途中何度も松山の街を見ては「あの娘はもう家に帰ったのだろうか」と思いながら。そこで「夢の跡」が出来た。
  • それから天守閣へ上った。もう桜が咲き始めていた。石手寺にお参りもした。(石手川の側の小道はデートコース、二人で歩いたこともあった。)
  • それから道後温泉に入った。(入浴後のだんごとお茶はうまい。)帰りはフェリーで帰った。三津浜から乗る。写りの悪いテレビを見ながらポッキー(名物の「ちくわ」もお奨め)をかじりながら3時間のゆっくりした帰路についた。

こわい話「古い旅館の怪」

あれは1983年「初恋」ツアーの頃、確か秋田のある大学の学園祭で宿泊した時のことです。丁度その時、秋田では医師会の学会が行われておりホテルがとれない状態でした。それで大学の自治会の一人が下宿している古い温泉旅館に泊まることになりました。そこは旅館と言っても随分前に廃業しており、今回だけ特別に泊めてもらえることになったのです。そこには年配、おそらく80過ぎのおばあさんとおじいさんがいらっしゃいました。その雰囲気は旅館というより古いお寺のような感じがしていました。私はコンサートが終わって一人で岩風呂にでも入ろうと他のスタッフより早くその宿に戻りました。私はそのおじいさんに部屋まで案内されましたが、他のスタッフとは違い私一人新館と聞かされ内心ラッキーだったと思い、古びた渡り廊下を、まるで宙に浮いているように歩くそのおじいさんについていきました。その時、突如雨がひどく降り始めなま暖かい空気と冷たい空気の混じった風が雨と一緒に吹き込みました。通された新館は昭和24年、私が生まれる前に建てられた「新館」で庭の中にポツンと離れのようにありました。
私は部屋に荷物を置いて雨で濡れた渡り廊下を通り岩風呂に入りました。すると隣の女湯から女性のはしゃぐような声が聞こえてきたのです。その夜の泊まり客は今回のスタッフだけだと聞いていたので、変だなとは思いながらも、ちょっぴり色っぽい気持ちでその声を聞いていました。私は風呂から出てすぐのところにある休憩室のようなところで、その声の主が出てくるのを待っていましたが、いつまで待っていても誰も出てきません。そうしているとそこに下宿している自治会の学生が帰ってきたので、その話をしました。そうするとその学生は「また、ですか」と青ざめた顔をして話すのでした。「以前やはり霊感の強い友達がここに泊まったとき、同じようなことを言いました。でもここは今日もそうですが、女風呂は使ってないのです。それに今日のコンサートのスタッフの方以外の宿泊客はいません。」
私はとにかく部屋に帰って寝ることにしたがなかなか寝付けません。そこでテレビをつけましたが当時は12時で全ての番組が終わっていて、持ってきたラジオでオールナイトニッポンを聞き始めるとラジオの電池がなくなってしまったのです。障子には柳の木の影が写り風で揺れていました。私は冷蔵庫にあったワンカップを出して一気に飲み寝ました。ところが、途中、女性のすすり泣く声で目が醒めたのです。私はウォークマンを出しベンチャーズを聞きながら、朝方やっと眠りにつきました。
翌朝「食事はどうされますか」という声に目が醒めました。私は部屋に入ってそう聞いたおじいさんに「すぐに食べます。」と言いましたが、後で内側からカギをかけていたのに、あのおじいさんはどうやって入ったのだろうと不思議に思いました。スタッフは誰も起きて来ず、私はそのおじいさんと二人無言の朝食をとりました。スタッフの部屋に行ってみるとキーボードを弾いていた伊藤みなこが男性スタッフ達の部屋で寝ていました。どうしたのか聞くと夜女性の泣き声がして眠れなくて、布団を持ってこの部屋に来た、ということでした。
数年前、その旅館の近くで女性の腐乱死体が発見されたのを聞いたのは、秋田を離れてからでした。

村下孝蔵トランプ

村下孝蔵トランプ村下孝蔵トランプ村下孝蔵トランプ村下孝蔵トランプ
広島県史上2番目に作られたトランプがこれだった。

ここだけの話

これから先は、あまり公に出来ないことも含まれています。
口の軽い人はくれぐれも見ないで下さい。
口外しないという自信のある方だけご覧ください。

師走のディナーショー

97年12月某日、日本でも最上クラスのホテルオ○○○で村下孝蔵ディナーショーが行われます。これは公式にアナウンスされるまでは極秘事項です。事務所には絶対に問い合わせないで下さい。(極秘というのは冗談ではなく本当ですので、くれぐれもお願いします。)某日はおよそ2千年前に生まれた方の誕生日です。
ところで一般には観客動員数の多いコンサートの方が儲かって、ディナーショーや小さな町村・青年団などが主催する小さなコンサートの方が儲からないと思われているようですが、実は反対です。大きなコンサートは費用も大きくたいして儲からないようです。ディナーショーや小規模のコンサートを業界では営業と呼びます。

コンサートの開演の遅れ

今年(1997年)の七夕コンサートも開演が15分ほど遅れてしまいました。また、地方公演でも開演時刻が遅れることはよくあります。そんな時一番イライラしてストレスを感じているのは誰でしょうか。それは村下孝蔵本人なのです。彼はたいてい開演予定時刻の前には舞台のそでまで来ています。コンサートは沢山のスタッフの協力で行われます。それも様々な異なる組織に属する人が集まって行います。特に初日には様々な予想外のトラブルが起こります。会場の構造で運び込めない機材が出る、PAの故障、照明のトラブル、スタッフが下痢で…もちろんある程度は予想の範囲内ですが、これが予想を大きく上まったりすると開演が延びます。もし10分以上遅れる時は何か大きなトラブルがあったんだと思って下さい。

コンサートの服装

コンサートのアンケートやファンレターやメールでも服装についての評価がよくあります。たいてい「良かった」というのと「似合わない」というのが半々です。実は、ステージ衣装はスタイリストが決めるもので本人が選ぶことはありません。バックバンドの衣装ですらそうです。むかし吉田拓郎さんなんかもステージはいつもジーンズでしたが、私生活でジーンズを着ていることはありませんでした。

「明日あればこそ」

「明日あればこそ」が「ナナカマドの挽歌」のTV化されたドラマの主題歌だという噂がありますが、ちょっと違います。その昔、まだ「ゆうこ」すら出していない頃、TBSのラジオドラマで「ナナカマドの挽歌」が作られました。その音楽を担当したのが村下孝蔵ですが、その時には「明日あればこそ」は、まだ作られていません。村下孝蔵の担当した音楽は全てギター一本で作られました。その後、アルバム制作の時に自分自身への応援歌として作ったのが「明日あればこそ」でした。「ナナカマドの挽歌」を読み何かしら影響は受けていたにしても、「ナナカマドの挽歌」を副題に使うことは本人には抵抗があったようです。その後、村下孝蔵は「ナナカマドの挽歌」の著者である秋葉ヤエ子さんにも会っていますが…

「哀愁物語」と「美し過ぎるミステイク」

この2曲についても色々な噂を聞きます。この曲はもともと中林由香という九州の音楽祭に優勝し、当時の村下の事務所のトップがスカウトした高校生の曲として書かれました。村下孝蔵の曲の前にTVドラマに使ったにもかかわらず売れなかったシングルを出し、そのトップの面子にかけても売ろうということで村下孝蔵が曲を書かされたようです。阿久悠も同様の理由で担ぎ出された訳です。しかし彼女には学校もありキャンペーンも思うように企画できず(色々と予定が変わり)結局途中で学校に戻ってしまったようです。この曲は始めてシングルになったデュエット曲ですが、中林由香にはキーが高く村下孝蔵には低いという結果になっています。

「大地」

中国に行って「大地」を作ったというのは間違っています。中国に行く前に「大地」は出来ていました。また予定では河島英五も一緒でしたが彼はビザがおりず行けませんでした。しかし現地の新聞には渡辺真知子と河島英五の写真に渡辺真知子と村下孝蔵と出ていたので、最初、自分が村下孝蔵だと言っても信じてもらえなかったそうです。ちなみに正式な形で親善大使として中国でコンサートをしたのは彼らが初めてです。よく海外でコンサートをしたと報じられるアーティストがいますが、殆どの場合は旅行代理店が主催するファンも含めた海外ツアーで観客の殆どが日本から行った人たちです。ひどい時には映画の撮影許可だけとって、そこで歌って海外でコンサートをしたという有名な歌手もいたりします。

エンディングのフェードアウト

アルバムやシングルなど、その時々でエンディングのフェードアウトの時間が変わることがあります。一般にシングルの曲をアルバムの中に収録する時、あるいはアルバムの曲をシングルにする時、それぞれアレンジや演奏までは変えなくてもミキシングはやり直すことが多くあります。それはアルバムでは前後の曲とのバランスがありますし、シングルでは有線やテレビ放送を意識することが多くあります。例えばステレオのバランスなどもシングルの方がモノラルに近い状態にしたりします。
また非常にせこい話をすると音楽は5分を越えると2曲分の印税が入ります。流石に村下孝蔵の場合はありませんが、人によってはあえて5分5秒なんて曲も作ったりします。

有線である曲の音量が大きく聞こえる

有線によってはレコードメーカーとタイアップして特定の曲の音量を上げることがあります。もちろん村下孝蔵の事務所はそんなことはしませんが、ヒットメーカーと呼ばれるアーティストにもよくあります。そんな場合はベストテンにも無条件で入れて貰えるようです。もちろん、それなりのお金を積みます。